ゲシュタルト崩壊フラグさんの個展に行きました

ゲシュタルト崩壊フラグさん初個展 京都 : 京都新聞

京都新聞で取り上げられてLINEニュースにも載ってたらしいです。すごい。

ゲシュタルト崩壊フラグさん(以下、ゲシュさん)が初個展をするということで、8日にゼミの同期と一緒に行きました。

場所はMATTua-LAという、清水五条の障害者就労事業所がやっているアトリエです。

ゲシュさんとは別の団体の機関誌でその活動を知ったのですが、「夕暮れ」という絵を見てすごく感じ入り、しばらくそこのアトリエに出入りしていました。

最初はその色彩に魅了されたんですが、彼女や他のアール・ヌーヴォーの絵にも特徴的なのは稠密で複雑な文様で、ここ数年はそこからさらに発展して新作文字を絵とともに書くようになっており、その点でいわゆる「障害者によるアート」の域を超えているように思えます。

f:id:silloi:20170610115052j:plain

「文字新作」という症状が精神病理学にあります。文字は僕の研究対象であり分析概念なんですが、彼女の文字には意味がありません。欠落しているというよりは、元々意味がないんですね。いわば幽霊文字のように、それ自体を表象するために存在しているようです。

彼女に訊いてみたところ、これらの文字を書いていると「落ち着く」ということだそうです。これは僕も高校生の頃から文字新作をやっているのでよくわかります。文字を生産するという行為は、文字それ自体を物質としてそこに再生産するということであり、それは文字を再生産する主体をそれによって世界に結び付ける象徴的行為なのではないか、と最近は考えています。

f:id:silloi:20170610115809j:plain

まあ、そういう難しい話を差し置いて、可愛くて不思議なゲシュさんの絵が見られるよい機会でした。

東京に特別展を観に行きました

5月31日(もう10日近く経っていた)、東京にいくつかの特別展を観に行きました。

交通手段はいつものさくら交通の高速バスです。2000円以下。今回の車両は普通でした。

午前7時10分に到着、秋葉原に着いた頃には行きたかったスーパー銭湯が閉まっていて残念。開館の9時半までを上野まで歩いて過ごします。

**ブリューゲルバベルの塔」展@東京都美術館

f:id:silloi:20170610103841j:plain

僕の住んでいるシェアハウスがバベルを名前に冠しているので行ってきました。

ちょっと見に行くつもりが結構ボリュームあって二時間半ほど滞在してしまいました。

ブリューゲルをタイトルに掲げていますが、16世紀前後のネーデルランド美術が中心です。ヒエロニムス・ボス(ボッシュ)がブリューゲルに先立つものとして取り上げられていて、名前は初めて知ったんですが興味深い立ち位置の画家だと思います。フロイトの「不気味なもの(Unheimlich)」ですよね。そういや今度こんなのもある。

ベルギー奇想の系譜展 ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで |ABC 朝日放送

バベルの塔はそれほど大きくなくて、絵の前に人だかりができてました。しかし絵自体はすごく細かくて、拡大したものを見ながらすごいなあと思っていました。東京藝大の人たちが3Dで再現CGを作っていて、これまたすごい努力だなあと思った次第です。バベルの塔を再現する試みって、改めて考えたら面白いですね。

 

**大エルミタージュ展@森アーツセンターギャラリー

これの前にミュシャ展を見ようと乃木坂の国立新美術館に行ったんですが、平日にもかかわらず午後2時頃で80分待ちとか気が狂いそうだったので、予定を変更してこちらを先にしました。

エルミタージュ美術館は国の威光をつけようと躍起になっていた当時のロシア帝国が作った美術館ですね。とはいえ当初は「エルミタージュ(Hermitage)」という名の示す通り、エカテリーナ大帝が個人的に欧州の絵画を蒐集していたのが始まりだそうです。人物がパッと浮かび上がるようなゴシック美術が多くて綺麗でした。あと平日は特別にエカテリーナ大帝の肖像画が撮れるというので撮ってきました。

f:id:silloi:20170610104351j:plain

 

**ミュシャ展@国立新美術館

大エルミタージュ展を出る頃にはもう午後5時前で、これはもうミュシャ展無理かなと思いながら国立新美術館に来てみたら、5時10分時点で10分待ち。30分でも見れればいいやと思い、チケットを購入し列に並びます。

f:id:silloi:20170610104420j:plain

入室しても当然ながら中は混んでてゆっくり見れないんですが、なんせ目玉のスラヴ叙事詩はめちゃくちゃデカいので十分見れます。近くで見れば色々観察できて面白いのでしょうか、なんせ高くてそこまで見れないし、確かに30分で十分だったみたいです。有名なポスターの絵もありましたが画集とかで見れるのでこれもサラッと見るだけ。にしてもミュシャチェコの国家事業にけっこう関わっているみんですね。スラヴ叙事詩民族意識から制作されたものですし。

余談ですがスラヴ叙事詩に関してはチェコ語にの発音に従い「ムハ(ミュシャ)」と表記されていました。韓国でもハングル表記はムハ(무하)でしたね。ムハだと何が何だかわかんないですよね、ゴッホがフランス語だとゴーになるみたいな。あとハムと紛らわしいし。

f:id:silloi:20170610111228j:plain

改めて思ったのは、ミュシャってアール・ヌーヴォーに数えられたりしてますが、それってやっぱ違くないですか。人物を中心に据えて効果的に表現する画風は、先に観たゴシック美術の流れを汲んでいるように思えました。それから文字の装飾と配置ですが、これもカリグラフィーから発想はそれほど遠くないと思えます。それを幾何学的に配置するのは、確かに斬新ではあったのでしょうが。

ただやっぱりそれまでの西洋絵画とは違う点もあって、絵が写真的なんですよね。つまり人物の表情なんかが、ある一瞬を切り取ったもののように感じられたのです。これは絵画をある連続的な時間の結晶として表現した、それまでの絵画とは異なる特徴だと思います。馬に乗るあの有名なナポレオンの絵は、馬が立ち上がる瞬間ではなくその動的な過程を表現しているのでした。

それゆえ人物が何人か出てくると、スラヴ叙事詩にしても他の絵にしても、同じ時間と場所を共有する一群の人物というよりも、それぞれ別の時間から切り出された人物たちのコラージュという印象を受けました。ただそうした特徴をもってして、アール・ヌーヴォーと呼ぶのはやっぱりなんか違う、と感じます。

 

**オリエント工業40周年記念展「今と昔の愛人形」

これが一番行きたかったんです。

f:id:silloi:20170610111505j:plain

最近はドールに対する興味がまた復活してきました。ラブドールはまた別ですけど、来てる人も女性が多くて、やっぱりドールとか人形に対する興味や愛好からだと思います。かといって会場が性的にニュートラルかというとそうでもなく、触れるコーナーとか指を入れられるコーナーとかあって面白かったです。

f:id:silloi:20170610111726j:plain

こちらは「人をダメにする玩具」というタイトルがついていました。

ネットでも記事になっていますね。

女性客が6割! オリエント工業40周年記念展「今と昔の愛人形」で感じた「不気味の谷」が潜む場所 | ロボスタ - ロボット情報WEBマガジン

ここにも書いているんですが、不気味さは全然感じないんですよ。人かと思ったら人じゃなかったみたいな、そういうハッとすることはあったんですけど、別にあちらから何かしてくるわけではないし。どちらかというとこっちがどうこうするんですよね。

逆に言えば、人間の生々しさみたいなのがないです。触ると冷たくはないものの温かくもないし、ねとっとしているし。あとこっち見てくれないですよね(僕が見ようとしなかっただけかもしれないが)。これに生々しさを付け加えたものが、いわゆるアイドルなのかもしれないですが…。

Amazonでは品切れになっていた本を買えて良かったです。研究の資料にします。周りの人に見せても喜ばれます、特に女性。

午後10時過ぎの高速バスに乗って京都に帰りました。東京はいろいろ催し物があってよいですね。値段的には気軽に行けるんですが、やっぱり数時間に一度起こされる夜行バスは時々でいいかなあ。

f:id:silloi:20170610112700j:plain

約束とイノセント・ネグリジェンス ADHDについての一考察

ADHD、つまり注意欠如・多動症について、最近色々と思うことが多いです。僕はあるADHD者のことをいつも考えているのですが、それはADHDについていつも考えているということでもあります。

先日、認知科学の講義で作業記憶(ワーキングメモリ)という概念を知りました。気球の数を数えるなど、ある課題を遂行する際に情報を短期的に保持しておく記憶領域のことで、心理学実験で単語を覚えて答えさせられたりするのは、たいていこの能力を測っています。注意が目標以外の対象にそらされたり、課題無関連思考が起こったりすると、ワーキングメモリの働きが妨害され、課題遂行のパフォーマンスが下がってしまうというわけです。

講義では言及されていなかったのですが、この「課題無関連思考」というものが、ADHD者の思考、とりわけ創造的なそれに深く関わっているのではないか、と僕には思われました。ADHD者は学校での授業という形式にあまりなじまない一方で、しばしば芸術など創造性の面で才能を発揮します。これはまさしく思わぬところで生まれるひらめき、「課題無関連思考」と言われるものの正の側面なのではないかと考えたのです。

ADHDと呼ばれるように、AD(Attention Disorder)すなわち注意欠如とHD(Hyperactivitiy Disorder)すなわち多動性とは普通ひとくくりにされますが、多動性が思考において活発となったとき、ワーキングメモリの働きが阻害され、それが注意の欠如としてあらわれるのではないか、と僕は推論しました。このようなロジックにおいて、マルチタスクが苦手なことと、色々なことを同時に思考していることとは矛盾しません。

ADHD者は、約束を果たすのにしょっちゅう失敗します。このことも心理学実験になぞらえて考えることで納得がいきました。約束とは課題であり、約束を果たすことは課題を遂行すること、そのためにひとつの思考を維持しておくことは、彼らにとっては大変な作業です。ひとたび注意をそらそうものなら、課題無関連思考のなすがままになるでしょう。それで彼らは計画の実行を先延ばしにし、約束を果たせずに次の機会としてしまうようです。

おそらくは、僕もまたADHD者です。だからそうした事情は、客観的にはよく理解できます。診断はありませんが、子供の頃から多動性や衝動性があったことに加え、生活面や精神面が不安定になると注意欠如が顕在化することが、大学に入って一人暮らしを始めてから自覚されました。ただ厄介なことに、僕にはまた別の発達障碍、ASD自閉スペクトラム症)の傾向もあるようです。そこで特徴的なのは、数字や音韻といった規則に対するこだわりです。ASD者はその上に形成されたパターンから外れることを怖れます。例えば物事が時間通りにうまく運ばないと不安になります。そしてその隙に現れようとするのが、あの多動性であり、注意の欠如です。

いずれにせよ、こうした傾向はそれぞれASD者やADHD者に一般的な特性であり、本人の態度にその責任を帰するべきではない、ましてや感情と結びつけて考えるべきではないと思えます。そこでこうした特性を本人から切り離して考えられるように、ADHD者の、意識的にせよ無意識的にせよ、約束の履行を先延ばしにしてしまう傾向を「イノセント・ネグリジェンス(innocent negligence)」、つまり「悪気のない怠慢」と名づけたいと思います。その人は約束について考えていない間、別のことが頭の中に浮かんでいるのでしょうが、それは仕方のないことです。保持しているだけで負担がかかる約束、それももはや果たせなかった約束について注意を促すことは、彼らに対して最も無理を強いることなので、やってはいけないと思います。

それでは僕はどうすればよかったのでしょうか。そこで交わされた「約束」に、僕は一体なにを求めていたのでしょうか。できることならば、約束などせずとも同じ場と時間を共有し、そこに声とまなざしを感じることが、互いにとって必要だと考えていたはずです。ならば場の上に生活を展開し、そこに交わりの生まれる隙を作っておくことが、「約束」になることのない約束、いわば信念ではないかと思われるのです。たとえ想像が思考を侵食しようとも、信念が損なわれることはない。その隙に待ち合わせではなく偶然の出会いが、無邪気な出会いが起こるとすれば、それはとても嬉しいことです。

京都国際写真祭に行きました

先日14日に閉幕した、KYOTOGRAPHIEこと京都国際写真展を最後の二日で回りました。四月の末ごろ、姉小路壁面のスーザン・バーネットのパネルが目に留まって、GWあたり行きたいなあと思いつつ、結局最後まで引き延ばしてしまったのでした。毎年開催しているらしいのですが、今年になるまで知りませんでしたね。いや数年前にもフリーパス買って回った気がしてきたぞ。

さて、いくつか感じた点を書きます。

建物が良かった

やはり京都の諸施設が会場なので、日本の建築物がギャラリーとなっているところはとても良かったです。特に12・無名舎と13・建仁寺の両足院は、室内の暗さと外の庭の緑がはっきりとコントラストをなして、心が洗われるような景色をお目にかかることができました。

f:id:silloi:20170515233359j:plain

f:id:silloi:20170515233451j:plain

一枚目、とても綺麗でしょ。スマートフォンで撮ったものなんですよ全部。Galaxy S8って言うんですけどね。

二枚目の写真、中央右下に四角い箱のようなものが映っていますが、これはカメラ・オブスキュアといって、庭の景色が上面の障子のような画面に浮かび上がる装置です。目の前を人が通るとこの画面に写り込むんで、単純な仕掛けのはずなんですがこれにはびっくり感動してしまいました。神具職人の手による作品だそうです。

f:id:silloi:20170515234823j:plain

モノクロ写真

写真展では、モノクロ写真が結構見られました。半世紀以上も前でモノクロが主流だったんだろうなというものは当然ですが、意識的にモノクロ写真で映しているものがいくつかありました。例えば、10・ロバート メイプルソープや15・ザネレ・ムホリの作品など。花や黒人をモノクロ写真で撮るのは対照的に見えますが、狙った効果は同じなのかもしれません。

f:id:silloi:20170515234938j:plain

モノクロ写真はなんか好きで、画面がキリッと引き締まった感じがします。単純に考えれば、色彩情報の次元が落ちてるはずなんですが、それを感じさせないのはどうしてなんでしょうね。無限が何次元重なろうと、人はそこに無限の広がりを見てしまうのでしょうか。

装置がすごい

写真が主な展示物ですが、会場によっては映像などのインスタレーションもありました。盛況していたのは14・TOILETPAPERの作品ですよね。キラキラした空間に女の子がたくさん来ていました。

f:id:silloi:20170515235816j:plain

思わずも良かったのは03・山城知佳子の作品。1階の映像作品は最初どういうものかわからなかったのですが、途中でその意図を了解して舌を巻きました。政治性という先入観を抱いていたのが吹き飛びました。2階の展示も両方良かったです。

f:id:silloi:20170516000018j:plain

あとヌード写真がよかった

人間は所詮クソでしかないのか 〜園子温『ANTIPORNO』感想

園子温監督の『ANTIPORNO』を見た。
芝居を見ているようだった。というより芝居そのものだった。ポルノは仮構にすぎないけれど、現実もまた演じられた仮構だ。そこに自由はどこにもなく、何者にもなれぬ我々はクソである。

場所は神戸の元町映画館。僕は神戸に住んでいるが、元町は三宮までの通過点で、商店街のあたりなど歩いたことがあまりなかった。研究室への手土産に、亀井堂総本店で菓子折りを買った。老祥記の豚まんも食べた。

芸術作品について文章を書くときにはいつも思うことだが、芸術とは技術(art )であり、現代ではしばしばテクノロジーの所産である。「メディアはメッセージである」(マクルーハン)のだから、映画という媒体で表現されたものを、文章という異なる媒体で再現することはできない。翻訳は嘘つきなので(Traduttore, traditore)、今回もいくつか焦点を絞り、作品を意訳しようと思う。

最初にお断りしておくが、本作品にエロや耽美の要素はほとんどない。本編を通して性的なシーンが多くを占めているが、それらはエロくもなければ美的でもない(倒錯は別として)。その点で確かに本作品は、日々消費されるところのポルノとも、あるいは本作品と並んで公開されているロマンポルノとも異なる立場を取るアンチ-ポルノである。

どうしてエロくないかと言うと、そうした気分がすぐさま奪われるからである。映画は原色の舞台で始まり、京子の裸体は途端に色褪せる。濡れ場は背景に貶められるか、ただの演技だったことを露呈される。この作品において、性愛的なものはただちにメタ化され、モノに変えられてしまう。エロティックなファンタジーに没入する隙はなく、束の間それを期待した私は、玩具を取り上げられた子供のように、たちまち醒めてしまうのだった。

このような演出を構成する主要な要素が芝居だ。我々が今見ていたものは芝居だったと突然明かされ、登場人物の立場がもはや逆転してしまったことに拍子抜けする。しかし京子の家族とのやりとりも明らかに芝居じみており、ここでも芝居、あそこでも芝居、芝居でない時がわからない……。

京子はある瞬間は処女、ある瞬間は売女であると言う。しかしそれは裏を返せば、処女にもなれず、売女にもなりきれないということだ。芝居が終わると、今度は京子が決意表明を強いられる、「お前は売女になれるか」。こうした葛藤の中、京子はますます狂人のようになる(ところで売女「ばいた」という言葉を耳にしたのは、ハチの「パンダヒーロー」以来だ)。

性的興奮が極大に達すると、京子はトイレに駆け込み嘔吐する。確かにポルノによる射精は、体の底から湧き上がる不快感を、ゲロとして排出するようなものだ。このように作品は一貫して女体を通した男性の自己反省でありこそすれ、女性が主体となるフェミニズム的な主張では断じてない。そのことは芝居の撮影陣が全員男で占められていることに象徴されている。

より強烈なのは、作中京子が連呼するクソという言葉だろう。これは一つには、Twitterに見られる園子温監督の言行そのままだ。いま一つには、より哲学的な、あるいは精神分析学的な隠喩だろう。ポルノも愛も、人間の上から幻想を取り払ってしまえば、そこにあるのはただの肉体、究極的には糞である。ナントカという偉いお坊さんが人間は所詮糞の棒だか袋だか言っていたが、それを懸命に覆い隠して飾り立てようとして来たのが人間文化であり、愛とポルノはその両翼であったろう。

様々な色が混じって汚くなったインクの中を京子が這いずり回るシーンで映画は終わる。彼女は叫ぶ、「出口がない」。果たしてこれは本来クソにすぎないポルノ、ひいては人間文化に対する悲観論に過ぎないのだろうか。否、むしろ『ANTIPORNO』と題するこの作品が、出口なき失敗という形で締めくくられることは、ポルノの可能性を背理法のような形で示したことになるのではないか。ならば人間それ自体に無限背進するのではなく、ポルノでも何でもよいから、幻想を推し進め強化していくべきなのだ。「生きることはバラで飾られねばならない」(モリス)。その意味で本作がロマンポルノ作品に名を連ねたことは、なるほど意義があったように思う。

シェアハウスはじめました

大学院生になったSilloiです。
一昨日に荷物を引っ越し、昨晩よりシェアハウスに住み始めました。
部屋はまだそこそこ広く、いつも泊まっていたシェアハウスよりずっと快適に眠れました。
あとはデスクとか本棚とか整備して小綺麗な部屋にしたいです。音楽流れたりお香焚いたりもしたい。

緊縛講習会に参加しました

有末剛さんが講師を務められる緊縛講習会「緊縛事始」に昨日参加しました。

開始十分で隣のおじさんに縛られたり、その二十分後には逆に自分が縛ったりしました(後で調べたらそのおじさん、高名な作家さんでした)。後手縛りができるようになって良かったのと、女性が吊るされるのが見れたのが面白かったです。麻縄を二本買ったので、これから練習しようと思います。

ところで緊縛ショーを見ていて、次のいくつかのことについて考えました。

  • ワイセツについて

三島由紀夫は「桃色の定義」(『不道徳教育講座』、角川文庫版)で、ワイセツという概念について最も明快正確な定義を下した書物として、サルトルの『存在と無』を挙げています。そこでサルトルはまず「品のよさ」と「品のないもの」の二つを分け、「品のよさ」すなわち「人間の身体は、一つ一つの行動が、目的にむかって適合し」ているものが、「その実現をさまたげられるときに、あらわれる」のが「品のないもの」であり、ワイセツはそこに含まれる、と三島は解説しています。ここでサルトルがワイセツな肉体の代表として挙げているのが、まさしく「サディストが縄で縛って眺めている相手の身体、つまり自由を奪われた肉体」でした。しかし私はショーにおいて、それが緊縛師とモデルとの共犯関係によって「一つ一つの行動が、目的にむかって適合し」ている限りにおいて、それは「品のよさ」すなわち美的評価の対象であってワイセツではないと思っていました。それが一転したのは縛り手がロウソクを取り出して縄の間に挟み込み、ロウ責めを始めたところです。ここに「行為を捨て去った一つの事実としての肉体が突然露呈され」、ショーはワイセツなものになったのです。「ワイセツの本当の意味は、目の前で人がころんでお尻が丸出しになったのを見るときのような、意外な、瞬間的な、ありうべからざるものをありうべからざるところに見たような場合にひそんでいる」ということを、その場に居合わせて感じました。

  • 束縛と自立について

束縛された女性が吊られるとき、彼女は苦しそうであるどころか、かえって快さそうにします。吊られるということは足が地を離れて宙にぶら下がることだから、身体が脱力するのでしょう。そして彼女は降ろされると、立つのが億劫そうに見えました。宙から地面に下ろされれば、自分の足で体重を支えねばならなくなるからです。

これは束縛と自立の関係に対応していると私は考えました。束縛されていることは、その限りにおいて楽である。しかし自由を確保するには自立する必要があり、それには自重を引き受けねばならない。大人は自立していることを期待されます。SMというのはそうした大人に束縛という役割を演出する一時の遊びであり、フィクションであるわけです。

  • 技術=藝術(art)について

藝術(art)という言葉は、技術(art)をその原義とします。プラトンは『国家』で藝術がイデアの模倣たる現実のそのまた模倣をその基本的原理としており、それゆえに価値が低いものと見なしました。アリストテレスは『詩学』でこれを批判し、自然の模倣から新しい価値を創造しうる藝術の価値を認めました。技術はその洗練された形式において藝術(bon art)であり、例えば武藝(martial art)もその例外ではありません。

突き詰められた技術は、それ自体として様式美を帯びます。ピアノを弾く演奏者の手は、奏でられる音楽とは別の次元で美しい。緊縛もまた縛られる対象のみならず、縛りゆくその手業もまた審美の対象になるでしょう。今回、そうした技術=藝術としての美しさをも緊縛に認めることができました。

同じく講習会に参加した学内の友人であり同好会の主催者に「なぜ緊縛に興味を持ったのか」と問われ、しばらく考え込んでしまいました。私はついにピアノのような楽器を演奏する技術を習得できなかった。そのことを口惜しく思っており、今でもそのような技術=藝術を身につけたいと思っていたのでしょう。