堀江貴文『ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく』を読んだ
- 作者: 堀江貴文
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2013/11/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (46件) を見る
- 働くことは人や社会とつながるための手段
- 働くことは時間をお金に換えるものではなく、仕事によって稼ぐものであるべきだ
- 作業に没頭することで仕事が好きになる
- チャンスに怖気づかず、ノリよく飛びつくことが変化への契機
- 自信は経験によって培われる
- 感情で物事を悩んで判断すると失敗するので、理性で考えて決断しよう
他にも主張はいくつかあるが、だいたい上に挙げたものに収まる。
起業家、あるいはビジネスマンとしての物事の考え方は、学生である我々とは良い意味で異なるから、その点について特に記述したい。
- 働くことは人や社会とつながるための手段
僕の周囲の京大生諸君は学生でいることが社会に認められ続ける唯一の道だと思い込んでしまう節があり、そのために留年したり大学院に進学してしまったりするが、社会人になると立場は変われどそれはそれとして社会から認められるのであり、おまけにお金も稼げる。どうせなら世界とつながれてお金も稼げた方がいい。したがって働くことは、人や社会とつながるためのベストな選択だと言える。
- 働くことは時間をお金に換えるものではなく、仕事によって稼ぐものであるべきだ
時給という概念が、「時間を捻出してその対価に報酬を得る」という発想につながっていると思う。サービス残業やブラック労働というのもコインの裏面と言えるだろう。被雇用者としてそのような価値観を内面化し続ける限り、仕事によって価値を生み出すという考えには思い至らないだろう。しかし堀江氏は学生の時から「仕事をしてお金を稼ぐ」という経験をし、それが起業にもつながったように思う。
- 作業に没頭することで仕事が好きになる
これは社会学の高橋由典先生の「体験選択」という概念に相当する。
「体験選択」とは、ある行為に思わずも没頭するという体験を通して、事後的にその行為を容認し、以後も無意識に選好するようになることを指す。
行為論的思考―体験選択と社会学 (叢書・現代社会のフロンティア)
- 作者: 高橋由典
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2007/07/01
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 2回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
書中では戦争嫌いの青年が兵役の中で銃を取り扱った体験に魅了され、訓練において非常に良い成績を収めるようになるといった事例が紹介されている。
つまりプログラミングにしろ営業にしろ、ある物事に夢中になった体験があれば、それが内的な動機づけとなり仕事がうまく回るようになったということが書いてある。「やりがいのある仕事」とかいったものができているかどうかは、この一点にかかっていそうである。そうした没頭の手段としては、「短期的なルールを自分で作る」といったことが書かれてある。
- チャンスに怖気づかず、ノリよく飛びつくことが変化への契機
これについては後悔していることがいくつもあるし、意識に上っていないものもたくさんあると思う。特に思い起こされるのは約一年前に id:hidesys によって開かれたWebサービス勉強会で、これに参加した一人である id:kiryuanzu はその後も数々のチャンスを捉え続け、現在エンジニア志望の学生として企業面接を破竹の勢いで突破している。当時の私は卒業研究中で京都に居住地がなく、ノートPCも破損していて外出先では使えなかったので参加するには至らなかった。しかしこれこそは私がプログラミングを勉強する最後のチャンスであったと思う。その他のサークルやシェアハウス界隈の催しには「ノリよく」飛びついてきた方だと思うが、この一点は今思い返すと本当に命運の分かれ目だったと思う。ただし堀江氏はこのような過去については「振り返らない」と述べている。
- 自信は経験によって培われる
先の主張と矛盾するように思われるかもしれないが、このようなチャンスに怖気づかず飛びつき、それを進めていくための自信は、他ならぬ経験によって培われる。堀江氏自身、そうした自信を学生の時のヒッチハイクの体験によって得たと書いている。しかし女性に対する自信のなさはそれでは培えず、三十代に入ってもまだ持てていなかったともある。挑戦への勇気とそれを実行する自信とは、相互作用するものなのだろう。
- 感情で物事を悩んで判断すると失敗するので、理性で考えて決断しよう
これは本当にそうだ。周囲の学生は恋愛にしろ人生にしろ、感傷的になって悩み抜くことを良しとしているように見える。それはそれで大事な経験なのかもしれないが、ほどほどにしてそのステージを抜けていかなければならないと思う。その先にあるのは、ルールに則って合理的に判断し、よりよいと思われる選択肢を選び取ることだと思う。学生をやめて社会に出るのは一つの決断であり、それができないのは怯懦というべきものだろう。