『君の名前で僕を呼んで』のテーマは同性愛ではなく少年愛である

出町座で『君の名前で僕を呼んで』を観た。映画の日だったからか劇場は超満員だった。

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17歳の少年エリオと24歳の男性オリヴァーとのひと夏の恋を描いた、美しく切ない作品だった。なかでもエリオの父が息子に語りかける終盤のシーンには心打たれた。

さて、ネットの感想などを見ると「ゲイ映画」とか「BL映画」などと評されているが、これは同性愛を描いたクィア映画ではないと思う。私はこの作品のテーマは「少年愛」だと解釈した。

まず、主役の二人が同性愛者だと考えるのには無理がある。エリオはオリヴァーへの恋を募らせる一方で彼女を作ってセックスするし、オリヴァーはエリオと知り合う前から付き合っていた女性と結婚する。クィア理論ではパッシング、すなわち異性のパートナーを持つなどして性的少数者ではない振りをするという戦略が知られているが、先に述べたような彼らの言動にそれが本意に反するというような描写はなされていないように思えた。

では彼らはバイセクシャルなのかというと、それも違うと感じる。彼らがお互いに向ける感情と女性に対する感情とは全く異なるものと察せられた。本作においては主役二人に加えてギリシャ彫刻の男性の肉体美が何度も強調される一方で、曖昧に関係を解消されるエリオの彼女や名前すら与えられないオリヴァーの結婚相手など、登場する女性の扱いは実に粗末なものである。ともすると男尊女卑的な雰囲気さえある。つまり男性への恋と女性との恋愛はそもそも別のものなのだ。バイセクシャルは男女どちらの性別にも同じ性的指向を持つことだと理解しているが、この場合には当てはまらない。

さらにもう一点、エリオとオリヴァーとの関係は全く対等ではない。かたや17歳の少年、かたや24歳の大学院生である。しかもオリヴァーは専門のギリシャ彫刻のみならず、文献学や古今の哲学にまで通じていると来ている。身分だけでなく知識においてもオリヴァーはエリオを圧倒的に上回っている。ただしエリオもまた音楽に熟達しており、興味を示すオリヴァーをからかってみたりもするのだが。ともあれ旧来の異性愛規範に対抗する同性愛が「純粋な関係性」を追求するなら、こうした非対称な関係はそもそも排除されねばならないだろう。

それでは二人の関係性はどのように表現されるべきか。ここで思い起こされるのが、ギリシャ彫刻やヘラクレイトスの断片といった、古代ギリシャないし古代ローマのモチーフだ。これらの時代には、成年男性と少年との間で取りなされる「少年愛」なるものがあったそうである。参照している文献がWikipedia程度しかないのであまり詳しくは述べられないが、少なくともそれが①年長男性と思春期前後の少年との間に、②肉体的・精神的な鍛錬といった教育を名分として、③ふつう性行為を伴う関係だった、ということは言ってよいと思う。さらにその関係は崇高なものであって、家族制度として子を儲けるために「しかたなく」取り結ぶ女性との性関係は逆に低く見られていたとのことだ。だからエリオやオリヴァーがパートナーとの性関係をも享受することは、矛盾するどころか至極まっとうな選択であったと言える。

ということで、彼らの関係は「少年愛」におけるそれであり、また監督や原作者もそのように想定したのではないかと想像する。しかし本作の二人にはそこにもうひとひねりが加えられている。それがユダヤ教キリスト教でもいいが)の同性愛禁忌という要素なのである。作中に何度も登場するアプリコットが、アダムとイブが口にしたリンゴの同性愛(ひいては少年愛)における表現であることは火を見るより明らかだ。このようにして彼らの恋から来る苦悩は互いへの性的欲求と社会規範との葛藤というかたちで表現されるが、これは古代ギリシャ-ローマ的価値観とユダヤキリスト教的価値観との衝突とも取ることができるのではないか?その代理戦争は前者の一時的優勢ののちに後者が最終的に勝利を収めることになるのだが、それでも元々あった土壌には毎年「罪の果実」が成り続けることだろう。

このようにして、『君の名前で僕を呼んで』を「少年愛」という観点から鑑賞することを私は提案したい。同性同士の恋愛がテーマだからとこの映画を「クィア映画」とか「LGBT映画」の枠に放り込んでしまうと、この作品の歴史的正統性という文脈を見落としてしまうと思う。