感情会計学各論

このエントリは「サークルクラッシュ同好会 Advent Calendar 2019」二日目の記事です。

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一日目は桐生あんず(@anzu_mmm)による「好奇心を持ち続けながら生きること」でした。

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感情と勘定

簿記会計の知識技能は、感情のマネジメントにも役立つ。すなわち、日々の取引を勘定科目として仕訳し、それらを綜合して経営に役立てるという考え方は、個人的および社会的生活において生じる感情を監視・統制するのにも有用である。とりわけ、どのような感情のために我々は喜んでお金を支払うのか、分析するのに大いに役立つ。こうした「感情と勘定」という発想を、会計の方法にもう少し近づけて考えてみたい。

以下、「感情会計(Mental Accounting)」の名のもとに、簿記会計の用語概念をかなり恣意的に用いるが、なにぶん簿記三級レベルの内容を学び始めたばかりのズブの素人なので、経理や会計の専門家はもとより学部生からしても失笑ものの文章であることをご容赦いただきつつ、可能であれば用語の誤りについてご指摘をいただきたい。 

ストックとフロー

我々が「感情」と言うとき、その種類は二つに分けられる。一つは「感情的になる」と言うときの一時的な感情であり、もう一つは「自尊感情」と言うときの持続的な感情である。

会計用語を用いると、これらはそれぞれ「フロー」と「ストック」と表現することができる*1。すなわち一方の感情は現れ出ては過ぎ去るが、他方の感情は主体において増減すると考えられる。両者は心理学などの領域においても命名区別されているが(たとえば前者を「エモーション」、後者を「メンタリティ」と呼ぶこともできる)、「キャッシュ・フロー」という会計学の用語にならい、ここでは前者を「メンタル・フロー」と呼ぶことにする。

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 一日における感情の収支を考えたとき、ポジティブな感情(感情利益と呼ぶ)がネガティブな感情(感情損失と呼ぶ)を上回ることがあれば、その逆の場合もある。ポジティブな感情がネガティブな感情を上回ったとき、その感情の剰余は繰越利益として後のために積み立てることができると考えよう。逆にネガティブな感情がポジティブな感情を上回ったとき、その感情の剰余は繰越損失として過去の積立分から取り崩すことになる。 つまりこうしたメンタル・フローの剰余分が、ストックとしての感情に蓄積されるものと想定する。

感情資本

このようなストックとしての感情の一つは、文化資本とか社会関係資本とかいった概念に近い。すなわち最初から資本という形で与えられていて、そこから経営状況によって増資したり減資したりする。そこでこうした感情を感情資本と呼ぶことにする*2。感情資本はメンタル・フローが上向き、すなわち利益が損失を上回る時には繰越利益として積み立てたり、逆に下向きの時には繰越損失として取り崩すことができる。

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生

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文化資本や一部の社会関係資本がそうであるように、感情資本も生まれた時から社会階層や家庭環境によってある程度その額が決まる。しかし企業が成長すれば増資するように、人間も順調に成長すればその感情資本を積み立てていく。しかし不相応に大きくなった会社が最終的には原資を取り崩さねばならなくなるように、感情のやり繰りに行き詰まった人間も感情資本の減資を余儀なくされる。しばしば我々は中学高校を出た後、ある種の趣味思想への耽溺や薬物の濫用などにより感情面でかえって貧困になってしまった人を見ることができるが、これは教育を通して積み立てられてきた感情資本を取り崩してしまった結果と見なすことができる。

感情資産

こうした損得勘定とは別に、我々は日常生活においてふつう自分の感情とうまく付き合っている。つまり感情という経常収支において人間は、感情に関する収入と支出が釣り合うよう暮らしている。簿記では貸借平均の原理に基づいて勘定を仕訳するが、これを感情の財政(finance)についても適用することができるだろう。すなわちストックとしての感情においても、資産と負債というの概念を導入する。

先に述べたように、自尊感情は感情資産と考えることができる。たとえば自尊感情が大きい人は、ある程度の感情的負荷を伴うタスクにも取り組むことができるし、そうして減った分はその他のやりとりを通じて再び回復することができる。成功体験や社会的紐帯などについても、これと同じ考え方ができるだろう。ただし「自尊感情が高い」とは書かなかったように、これが少ないこと、つまり「自尊感情が低い」ことはそれがマイナスであることを意味しない。感情資産がマイナスとなる時には「借越」という概念を導入し、それを負債に振り替えると見なす——そしてこの感情負債こそが本稿の急所である。

感情負債

資産運用について述べた書籍の世界的ベストセラーに『金持ち父さん 貧乏父さん』がある。その中で提唱されているテーゼの一つが、「金持ちは資産を買うために正しくお金を使うのに対し、貧乏人は資産だと信じて負債を買ってしまう」というものである。金持ちが正しく買った資産はそれ自体が利益を生み出すのに対し、貧乏人が社会的通念から良いものと思い込まされて買ってしまう資産にはしばしば高い税が課せられ、そのうえローンという形で一緒に組まされる負債からはその額に応じた利子が発生する。これらの費用が支出となって収入を相殺し続ける限り、貧乏人はそこから抜け出すだけの資金を確保することができない。なお、そのような資産と信じられている財として、住宅(マイホーム)や自動車などが挙げられている。

改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん:アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学 (単行本)

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起業にはふつう融資を必要とするように、我々は生まれながらにして感情にまつわる負債を抱えている。そのうち最も大きなものは親に対するそれであり、これらの負債はしばしば一生をかけても返済することができないので、我々は死ぬまでその利子を払い続けることになる。ただし精神的・経済的自立によって、このうちの多くの勘定科目については完済することができる。

環境要因によって後天的に得られた自卑感情、トラウマなども感情負債である。たとえば人間はしばしば不相応に高い社会的地位という資産を手にするが、その際に劣等感という感情負債を抱え込み、それは社交上においても私生活においても感情面におけるツケを生み出す。

人間関係も社会的拘束という面においては感情負債であり、これを繋ぎ止めるためには感情的あるいは金銭的費用(=コスト)を支払わねばならない。それは小売店や飲食店が人件費や固定資産税などの固定費の大きさから、利潤を拡大しようとしてしばしば薄利多売型のチェーン展開をすることに相似である。

ケーススタディ:大学生のエモーション・フロー

大学入学から社会人になるまでの一つの「勝ち確」パターンは、親からの拘束の度合いを下げつつ(負債の返済)、多くの人々との交際をとり結ぶこと(資産の獲得)だと私は考えている。しかし残念ながら私の周囲でしばしば見受けられたのは、親からの負債超過に苦しみ、結果として資産としての人間関係を維持することもできず、最悪の場合には肉体・精神的に問題をきたして実家に強制送還されるというパターンであった。

こうした「負債超過の末に原資を減らし、最終的に破綻」というコースを歩まなかった人々でも、大方は先に挙げたような「貧乏人」であった。すなわち、人間関係、性的対照、趣味嗜好、主義思想、などに対して、彼らは惜しげもなく対価を支払う*3。しかも彼らの主張といったら、そうした体験においてこそ「本当の自分」があるのであり、それ自体は金銭的価値によって測ることができない、というものなのである。しかし感情会計学の観点からすれば、彼らは自身が抱えている負債の利子を毎度支払わされているのであり、しかもそれが負債であるということを彼らは認識していないのだ。結果として彼らは、自身がなぜそうした体験を求めるよう仕向けられているのか、その原因を特定することなく、いたずらに費用を垂れ流し続けることになる。

こうした負債には債権者がおらず、したがってその負債もまた幻想であると直観したあなたは正しい。実際、このような負債こそは資本主義社会が生み出す「欲望」であり、我々はそれに対する「疾しさ」という債務から、その「充足」を目指して対価を支払う。しかしそれは「欲望」という負債から生ずる利子であって負債の返済ではないために、人々は決して返済されることのない負債に対してただひたすらに費用を支払い続けることになる。

感情戦略

このような感情負債に対処するためには、いくつかの戦略が考えられる。

一つはこの種の負債の振替、すなわち「欲望」を別の好ましい「欲望」に読み替えることである。より利子の少ない、すなわちより感情的コストの小さい「欲望」があり、かつそれらが機能的に等価であれば、そちらに感情負債を振り替えた方が費用は安くつく。たとえばバンドマンの追っかけをするにしても、過激なバンドのファンより穏健なバンドのファンでいる方が、その感情的影響はより「マイルド」である。

いま一つは欲望そのものを無効化するというもので、具体的には資本主義というゲームから足を洗うことである。その最たるものは仏教以来説かれている「煩悩」を滅却するというものだが、歴史を見てもわかるとおりこの道のりは非常に困難だ。結局それは大方の場合、先に述べたような定常的ツケ払いへと落ち着く。

おそらく最適な戦略は、債権者のない人々の「欲望」の債務者となること、すなわち「欲求」対象としての主体性を取り戻していくというものである。具体的には、感情負債を特定してこれを返済しつつ、人々との紐帯や自尊感情といった感情資産を高めていくことで、メンタル・フローを正常化していくことである。ただしその過程では負債を負債で返すとか、他者の債券を買うといったように、「欲望」の再生産に与することは避けられない。実際この社会が資本主義のルールに則っている以上、資本主義を利用することこそが最大の効果を上げる方法である。

ここに、資本主義のゲームに乗っかった者こそが資本主義のゲームから“あがる”ことができる、というパラドックスを認めることができる。逆に最も悲惨なのは、資本主義を受け入れないという主義主張に固執し、そのため資本主義の仕組みをついに知ることがなく、しかし実際には資本主義による「欲望」を断ち切ることができないために、それにより生じるツケを一生払わされ続ける者であろう。

おわりに

<!-- ここに自分語りが入ることが期待される -->

*1:現在この用語は経済用語ないしビジネス用語ということになっているが、本来は化学プロセス工学、すなわち化学工場におけるプロセスを構築するための概念であったと私自身は考えている。

*2:なおここで社会関係資本(social capital)における資本(capital)とは、五勘定における資本あるいは純資産(equity)の小分類であり、必ずしもこうした簿記会計を想定したものではない。

*3:この内実を一々詳かに挙げれば、ことごとく読者の怒りを買うことは必至だから、そんなことは私はしない。