《ちいさめ借家怪獣アパートン》における固有名の機能、あるいはテセウスのパラドックスについて

北千住BUoYにて上演された、かまどキッチン《ちいさめ借家怪獣アパートン》(児玉健吾)を観劇してきた。

切り口はいくつもあると思うが、自分は生まれ変わったキャラクターをめぐるやりとりにふと「ヘラクレイトスの川」という寓話を思い出した。

我々はある川を指してそれが何々川であると言うが、しかし川に流れる水そのものは常に移り変わっている。すなわちそれは要素としては常に同じものでないにもかかわらず、どうして同じ川だと言うことができるのか。あるいはそれが可能だとして、どこまでが同じ川でどこからが違う川なのか、というのがそれである。こうした問題は船の材木における同様の議論の名を取って「テセウスパラドックス」と呼ばれる。

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逆に言うとこのような固有名が、いわば川の流れに対する錨となって、その建物の同一性を繋ぎ留めているとも言える。ただし演技の上では両者は同一の役者に演じられることによって、そのような固有性が担保されている。たとえば「町山」と呼ばれる中華料理店は、「ジャスコ町山店」となった後もその名を留めることによって、引き続き彼との連続線上にあるものとして他の登場人物たちに受け入れられることになる。

ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

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 なおこの観点からすれば、「ジャスコ町山店」となった「町山」はかろうじてその同一性を保持しているが、「タワーさん」となった「灯台さん」はもはやアイデンティティを喪失していることになる。実際、「町山」は「ジャスコ町山店」となった後も適応した生活を送っていたのに対し、「タワーさん」は次第に精神薄弱となっていき、終幕直前にはほとんど自我喪失の状態に陥っていたが、そのことは固有名に起因するアイデンティティ拡散の事態をよく示している*1

拡散diffusion―アイデンティティをめぐり、僕たちは今

拡散diffusion―アイデンティティをめぐり、僕たちは今

 

 ここに本作品のトリックタワーである「ねこさん」の特異な役割がある。というのも他の登場人物とは異なり、「ねこ」はあくまでその場しのぎで捏造された、結局のところ自分から言い出した名前にすぎなかった*2

それが終幕直前のクライマックスにおいて「フーイドン」という名前が明かされる、あるいはその瞬間にはじめて固有名が与えられる。周知の通り「ドン」はそれが怪獣の一種であることを示す名前であるから*3、ここにおいて彼女もまた怪獣のほかにはありえないことが確定的となる。

固有名

固有名

 

ここに、成人していずれ王の実父を殺すだろうという宣託を受け生まれてきたオイディプスが、巡り巡って予言通りに父親を殺してしまうのに等しいカタルシスがあったと思う。つまり風を起こして街を盛り上げようとする彼女は、その意志に反して(あるいは自ら抱いた疑念の通りにやはり)怪獣であったというわけだ。

オイディプス王 (古典新訳文庫)

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しかし名付けが時に無邪気な暴力であったように、彼女は何らかの思惑があって自らの暮らしを破壊しようとしたのではなかった。だいいち彼女がやってきた時点で街はすでに破壊されていたのであり、彼女が名もなき怪獣から生まれてきたことに必然性がなかったのと同様に、彼女が怪獣として振る舞(ってしま)うことにはやはり理由がない。結局彼女は街を出ることになるが、この固有名という根源的暴力のために(それが暴かれる可能性=アイデンティティが存する限りにおいて)、彼女が旅先でもやはり同様の“破壊”を起こしてしまうだろうことを我々は察している——より個人的には、私や児玉が自らのシェアハウス暮らしを通じて、そこが彼女のような「トリックスター」を住人として時に迎え入れては送り出していく場であることを経験的に「知っている」。

元型論

元型論

 

これに対し、開幕当初より周囲から「アパートメントさん」と呼ばれていながら、クライマックスにおいてやはり怪獣の名を持つことが明かされる「アパートン」の立ち位置は微妙である。ここには児玉がシェアハウス暮らしを出発点としたことによる、自己定義の不可能性という困難さがあったものと想像する。つまるところ主体は主体それ自身を見ることはできず、自己を映し出す「鏡」を必要とする。その実験的試みが、微視的には自身がキャラクターの作演出を務める《閉じられた》芝居であり、巨視的には自らがその中に住まうシェアハウスという《開かれた》舞台装置なのではないか。

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*1:ところで「○○さん」といった呼び方に、自分は《けものフレンズ》におけるそれを想起した。そこでも動物の種という一般的カテゴリを代表するキャラクターに、「サーバルちゃん」といった固有名が与えられるのであった。

*2:「仮名と真名」という問題系については、「コナン君」と「工藤新一」におけるそれを想像すると非常に理解しやすいだろう。そもそも「江戸川コナン」という名前は、彼が名前を問われた拍子にその場にあった本棚の二冊の推理小説から作者の名前を組み合わせて作ったものだった。

*3:正確には、恐竜を示すラテン語の接尾辞「-odon」。