sensual/senseless

昨晩友人の女子芸大生とLINEでエロ話していたのだけど、男女の性的興奮ポイントの違いに改めて驚く。このような認識なくして男女の円滑な性コミュニケーションは困難であると思うし、互いの世界を知らないことを双方いまさらながら(僕は毎回のことではあるが)知らされる。

彼女は“したい”と感じたとき、あるいは今にも“する”という雰囲気になったときに、これから起こる出来事への予感や期待感から「濡れる」のだという。あるいはそこで起こっている出来事、例えば陰茎の膣挿入にまつわる想像から、とも。それはそうした予感や想像を可能にする感情的経験、つまり性体験への想像力なくしては不可能だろう。この点で女性が有利であることが生物学的な理由によるものかあるいは文化的なものかは判らないが、男性がもとより感情を伴う想像力において不利な立場にあることはまず間違いないように思われる。

こうした感情にまつわる想像力のことを、かねてより僕は感情資本と呼んでいる。あるいは今の文脈からすれば、より具体的に官能資本と呼ぶ方がよいかもしれない。こうした想像力に女性の身体は避けがたく結びつけられていて、自らの感覚とともに受け入れられてきたものと想像する。対して男性のそれというのは感情にはそれほど結びついておらず、しかもその感覚というのもごく急峻なものである。

僕は痛みにそれほど敏感でなくて、先日も酔って歩いた山道で左の脛を強打し、ジーンズの下で皮膚がえぐれて血まみれになっていたのだけど、特に病院にも行かず絆創膏を貼って済ましている。ただし過剰な刺激には弱くて、ノイズの多い環境にあるとすぐ参ってしまう。それは僕の皮膚が日頃から無数の感覚入力に馴化され、極力不必要な情報をフィルターしているだけのことかもしれない。

痛みも含め、それらの感覚を官能的に享受できる主体として期待されてきたのが、女性の中でもシャーマンや巫女といった霊媒師たちであった。しかし男性はそうした感情的な要素を認識できないので、彼女たちの感覚的な面ばかりが強調されてきた。さらに古くは癲癇、19世紀後半からはヒステリー、そして現代日本ではメンヘラが、過剰な享楽の主体として想定されてきたのであった。中世ヨーロッパの魔女狩り、戦時下の婦女暴行などは、そのような対象としての女性に対する羨望に基づく復讐であった、と以前に読んだ覚えがある。

ともかく男性一般と主語を大きくするまでもなく、僕にはこのような官能がまだ欠けている自覚がある。我々の資本主義社会においては富める者がますます富む。世に《成功》したいと望むならば、債券を発行してでも元手を得るのが先である。

決定版 感じない男 (ちくま文庫)

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