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緊縛講習会に参加しました

文化

有末剛さんが講師を務められる緊縛講習会「緊縛事始」に昨日参加しました。

開始十分で隣のおじさんに縛られたり、その二十分後には逆に自分が縛ったりしました(後で調べたらそのおじさん、高名な作家さんでした)。後手縛りができるようになって良かったのと、女性が吊るされるのが見れたのが面白かったです。麻縄を二本買ったので、これから練習しようと思います。

ところで緊縛ショーを見ていて、次のいくつかのことについて考えました。

  • ワイセツについて

三島由紀夫は「桃色の定義」(『不道徳教育講座』、角川文庫版)で、ワイセツという概念について最も明快正確な定義を下した書物として、サルトルの『存在と無』を挙げています。そこでサルトルはまず「品のよさ」と「品のないもの」の二つを分け、「品のよさ」すなわち「人間の身体は、一つ一つの行動が、目的にむかって適合し」ているものが、「その実現をさまたげられるときに、あらわれる」のが「品のないもの」であり、ワイセツはそこに含まれる、と三島は解説しています。ここでサルトルがワイセツな肉体の代表として挙げているのが、まさしく「サディストが縄で縛って眺めている相手の身体、つまり自由を奪われた肉体」でした。しかし私はショーにおいて、それが緊縛師とモデルとの共犯関係によって「一つ一つの行動が、目的にむかって適合し」ている限りにおいて、それは「品のよさ」すなわち美的評価の対象であってワイセツではないと思っていました。それが一転したのは縛り手がロウソクを取り出して縄の間に挟み込み、ロウ責めを始めたところです。ここに「行為を捨て去った一つの事実としての肉体が突然露呈され」、ショーはワイセツなものになったのです。「ワイセツの本当の意味は、目の前で人がころんでお尻が丸出しになったのを見るときのような、意外な、瞬間的な、ありうべからざるものをありうべからざるところに見たような場合にひそんでいる」ということを、その場に居合わせて感じました。

  • 束縛と自立について

束縛された女性が吊られるとき、彼女は苦しそうであるどころか、かえって快さそうにします。吊られるということは足が地を離れて宙にぶら下がることだから、身体が脱力するのでしょう。そして彼女は降ろされると、立つのが億劫そうに見えました。宙から地面に下ろされれば、自分の足で体重を支えねばならなくなるからです。

これは束縛と自立の関係に対応していると私は考えました。束縛されていることは、その限りにおいて楽である。しかし自由を確保するには自立する必要があり、それには自重を引き受けねばならない。大人は自立していることを期待されます。SMというのはそうした大人に束縛という役割を演出する一時の遊びであり、フィクションであるわけです。

  • 技術=藝術(art)について

藝術(art)という言葉は、技術(art)をその原義とします。プラトンは『国家』で藝術がイデアの模倣たる現実のそのまた模倣をその基本的原理としており、それゆえに価値が低いものと見なしました。アリストテレスは『詩学』でこれを批判し、自然の模倣から新しい価値を創造しうる藝術の価値を認めました。技術はその洗練された形式において藝術(bon art)であり、例えば武藝(martial art)もその例外ではありません。

突き詰められた技術は、それ自体として様式美を帯びます。ピアノを弾く演奏者の手は、奏でられる音楽とは別の次元で美しい。緊縛もまた縛られる対象のみならず、縛りゆくその手業もまた審美の対象になるでしょう。今回、そうした技術=藝術としての美しさをも緊縛に認めることができました。

同じく講習会に参加した学内の友人であり同好会の主催者に「なぜ緊縛に興味を持ったのか」と問われ、しばらく考え込んでしまいました。私はついにピアノのような楽器を演奏する技術を習得できなかった。そのことを口惜しく思っており、今でもそのような技術=藝術を身につけたいと思っていたのでしょう。