人間は所詮クソでしかないのか 〜園子温『ANTIPORNO』感想

園子温監督の『ANTIPORNO』を見た。
芝居を見ているようだった。というより芝居そのものだった。ポルノは仮構にすぎないけれど、現実もまた演じられた仮構だ。そこに自由はどこにもなく、何者にもなれぬ我々はクソである。

場所は神戸の元町映画館。僕は神戸に住んでいるが、元町は三宮までの通過点で、商店街のあたりなど歩いたことがあまりなかった。研究室への手土産に、亀井堂総本店で菓子折りを買った。老祥記の豚まんも食べた。

芸術作品について文章を書くときにはいつも思うことだが、芸術とは技術(art )であり、現代ではしばしばテクノロジーの所産である。「メディアはメッセージである」(マクルーハン)のだから、映画という媒体で表現されたものを、文章という異なる媒体で再現することはできない。翻訳は嘘つきなので(Traduttore, traditore)、今回もいくつか焦点を絞り、作品を意訳しようと思う。

最初にお断りしておくが、本作品にエロや耽美の要素はほとんどない。本編を通して性的なシーンが多くを占めているが、それらはエロくもなければ美的でもない(倒錯は別として)。その点で確かに本作品は、日々消費されるところのポルノとも、あるいは本作品と並んで公開されているロマンポルノとも異なる立場を取るアンチ-ポルノである。

どうしてエロくないかと言うと、そうした気分がすぐさま奪われるからである。映画は原色の舞台で始まり、京子の裸体は途端に色褪せる。濡れ場は背景に貶められるか、ただの演技だったことを露呈される。この作品において、性愛的なものはただちにメタ化され、モノに変えられてしまう。エロティックなファンタジーに没入する隙はなく、束の間それを期待した私は、玩具を取り上げられた子供のように、たちまち醒めてしまうのだった。

このような演出を構成する主要な要素が芝居だ。我々が今見ていたものは芝居だったと突然明かされ、登場人物の立場がもはや逆転してしまったことに拍子抜けする。しかし京子の家族とのやりとりも明らかに芝居じみており、ここでも芝居、あそこでも芝居、芝居でない時がわからない……。

京子はある瞬間は処女、ある瞬間は売女であると言う。しかしそれは裏を返せば、処女にもなれず、売女にもなりきれないということだ。芝居が終わると、今度は京子が決意表明を強いられる、「お前は売女になれるか」。こうした葛藤の中、京子はますます狂人のようになる(ところで売女「ばいた」という言葉を耳にしたのは、ハチの「パンダヒーロー」以来だ)。

性的興奮が極大に達すると、京子はトイレに駆け込み嘔吐する。確かにポルノによる射精は、体の底から湧き上がる不快感を、ゲロとして排出するようなものだ。このように作品は一貫して女体を通した男性の自己反省でありこそすれ、女性が主体となるフェミニズム的な主張では断じてない。そのことは芝居の撮影陣が全員男で占められていることに象徴されている。

より強烈なのは、作中京子が連呼するクソという言葉だろう。これは一つには、Twitterに見られる園子温監督の言行そのままだ。いま一つには、より哲学的な、あるいは精神分析学的な隠喩だろう。ポルノも愛も、人間の上から幻想を取り払ってしまえば、そこにあるのはただの肉体、究極的には糞である。ナントカという偉いお坊さんが人間は所詮糞の棒だか袋だか言っていたが、それを懸命に覆い隠して飾り立てようとして来たのが人間文化であり、愛とポルノはその両翼であったろう。

様々な色が混じって汚くなったインクの中を京子が這いずり回るシーンで映画は終わる。彼女は叫ぶ、「出口がない」。果たしてこれは本来クソにすぎないポルノ、ひいては人間文化に対する悲観論に過ぎないのだろうか。否、むしろ『ANTIPORNO』と題するこの作品が、出口なき失敗という形で締めくくられることは、ポルノの可能性を背理法のような形で示したことになるのではないか。ならば人間それ自体に無限背進するのではなく、ポルノでも何でもよいから、幻想を推し進め強化していくべきなのだ。「生きることはバラで飾られねばならない」(モリス)。その意味で本作がロマンポルノ作品に名を連ねたことは、なるほど意義があったように思う。