京都国際写真祭に行きました

先日14日に閉幕した、KYOTOGRAPHIEこと京都国際写真展を最後の二日で回りました。四月の末ごろ、姉小路壁面のスーザン・バーネットのパネルが目に留まって、GWあたり行きたいなあと思いつつ、結局最後まで引き延ばしてしまったのでした。毎年開催しているらしいのですが、今年になるまで知りませんでしたね。いや数年前にもフリーパス買って回った気がしてきたぞ。

さて、いくつか感じた点を書きます。

建物が良かった

やはり京都の諸施設が会場なので、日本の建築物がギャラリーとなっているところはとても良かったです。特に12・無名舎と13・建仁寺の両足院は、室内の暗さと外の庭の緑がはっきりとコントラストをなして、心が洗われるような景色をお目にかかることができました。

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一枚目、とても綺麗でしょ。スマートフォンで撮ったものなんですよ全部。Galaxy S8って言うんですけどね。

二枚目の写真、中央右下に四角い箱のようなものが映っていますが、これはカメラ・オブスキュアといって、庭の景色が上面の障子のような画面に浮かび上がる装置です。目の前を人が通るとこの画面に写り込むんで、単純な仕掛けのはずなんですがこれにはびっくり感動してしまいました。神具職人の手による作品だそうです。

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モノクロ写真

写真展では、モノクロ写真が結構見られました。半世紀以上も前でモノクロが主流だったんだろうなというものは当然ですが、意識的にモノクロ写真で映しているものがいくつかありました。例えば、10・ロバート メイプルソープや15・ザネレ・ムホリの作品など。花や黒人をモノクロ写真で撮るのは対照的に見えますが、狙った効果は同じなのかもしれません。

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モノクロ写真はなんか好きで、画面がキリッと引き締まった感じがします。単純に考えれば、色彩情報の次元が落ちてるはずなんですが、それを感じさせないのはどうしてなんでしょうね。無限が何次元重なろうと、人はそこに無限の広がりを見てしまうのでしょうか。

装置がすごい

写真が主な展示物ですが、会場によっては映像などのインスタレーションもありました。盛況していたのは14・TOILETPAPERの作品ですよね。キラキラした空間に女の子がたくさん来ていました。

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思わずも良かったのは03・山城知佳子の作品。1階の映像作品は最初どういうものかわからなかったのですが、途中でその意図を了解して舌を巻きました。政治性という先入観を抱いていたのが吹き飛びました。2階の展示も両方良かったです。

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あとヌード写真がよかった

人間は所詮クソでしかないのか 〜園子温『ANTIPORNO』感想

園子温監督の『ANTIPORNO』を見た。
芝居を見ているようだった。というより芝居そのものだった。ポルノは仮構にすぎないけれど、現実もまた演じられた仮構だ。そこに自由はどこにもなく、何者にもなれぬ我々はクソである。

場所は神戸の元町映画館。僕は神戸に住んでいるが、元町は三宮までの通過点で、商店街のあたりなど歩いたことがあまりなかった。研究室への手土産に、亀井堂総本店で菓子折りを買った。老祥記の豚まんも食べた。

芸術作品について文章を書くときにはいつも思うことだが、芸術とは技術(art )であり、現代ではしばしばテクノロジーの所産である。「メディアはメッセージである」(マクルーハン)のだから、映画という媒体で表現されたものを、文章という異なる媒体で再現することはできない。翻訳は嘘つきなので(Traduttore, traditore)、今回もいくつか焦点を絞り、作品を意訳しようと思う。

最初にお断りしておくが、本作品にエロや耽美の要素はほとんどない。本編を通して性的なシーンが多くを占めているが、それらはエロくもなければ美的でもない(倒錯は別として)。その点で確かに本作品は、日々消費されるところのポルノとも、あるいは本作品と並んで公開されているロマンポルノとも異なる立場を取るアンチ-ポルノである。

どうしてエロくないかと言うと、そうした気分がすぐさま奪われるからである。映画は原色の舞台で始まり、京子の裸体は途端に色褪せる。濡れ場は背景に貶められるか、ただの演技だったことを露呈される。この作品において、性愛的なものはただちにメタ化され、モノに変えられてしまう。エロティックなファンタジーに没入する隙はなく、束の間それを期待した私は、玩具を取り上げられた子供のように、たちまち醒めてしまうのだった。

このような演出を構成する主要な要素が芝居だ。我々が今見ていたものは芝居だったと突然明かされ、登場人物の立場がもはや逆転してしまったことに拍子抜けする。しかし京子の家族とのやりとりも明らかに芝居じみており、ここでも芝居、あそこでも芝居、芝居でない時がわからない……。

京子はある瞬間は処女、ある瞬間は売女であると言う。しかしそれは裏を返せば、処女にもなれず、売女にもなりきれないということだ。芝居が終わると、今度は京子が決意表明を強いられる、「お前は売女になれるか」。こうした葛藤の中、京子はますます狂人のようになる(ところで売女「ばいた」という言葉を耳にしたのは、ハチの「パンダヒーロー」以来だ)。

性的興奮が極大に達すると、京子はトイレに駆け込み嘔吐する。確かにポルノによる射精は、体の底から湧き上がる不快感を、ゲロとして排出するようなものだ。このように作品は一貫して女体を通した男性の自己反省でありこそすれ、女性が主体となるフェミニズム的な主張では断じてない。そのことは芝居の撮影陣が全員男で占められていることに象徴されている。

より強烈なのは、作中京子が連呼するクソという言葉だろう。これは一つには、Twitterに見られる園子温監督の言行そのままだ。いま一つには、より哲学的な、あるいは精神分析学的な隠喩だろう。ポルノも愛も、人間の上から幻想を取り払ってしまえば、そこにあるのはただの肉体、究極的には糞である。ナントカという偉いお坊さんが人間は所詮糞の棒だか袋だか言っていたが、それを懸命に覆い隠して飾り立てようとして来たのが人間文化であり、愛とポルノはその両翼であったろう。

様々な色が混じって汚くなったインクの中を京子が這いずり回るシーンで映画は終わる。彼女は叫ぶ、「出口がない」。果たしてこれは本来クソにすぎないポルノ、ひいては人間文化に対する悲観論に過ぎないのだろうか。否、むしろ『ANTIPORNO』と題するこの作品が、出口なき失敗という形で締めくくられることは、ポルノの可能性を背理法のような形で示したことになるのではないか。ならば人間それ自体に無限背進するのではなく、ポルノでも何でもよいから、幻想を推し進め強化していくべきなのだ。「生きることはバラで飾られねばならない」(モリス)。その意味で本作がロマンポルノ作品に名を連ねたことは、なるほど意義があったように思う。

シェアハウスはじめました

大学院生になったSilloiです。
一昨日に荷物を引っ越し、昨晩よりシェアハウスに住み始めました。
部屋はまだそこそこ広く、いつも泊まっていたシェアハウスよりずっと快適に眠れました。
あとはデスクとか本棚とか整備して小綺麗な部屋にしたいです。音楽流れたりお香焚いたりもしたい。

緊縛講習会に参加しました

有末剛さんが講師を務められる緊縛講習会「緊縛事始」に昨日参加しました。

開始十分で隣のおじさんに縛られたり、その二十分後には逆に自分が縛ったりしました(後で調べたらそのおじさん、高名な作家さんでした)。後手縛りができるようになって良かったのと、女性が吊るされるのが見れたのが面白かったです。麻縄を二本買ったので、これから練習しようと思います。

ところで緊縛ショーを見ていて、次のいくつかのことについて考えました。

  • ワイセツについて

三島由紀夫は「桃色の定義」(『不道徳教育講座』、角川文庫版)で、ワイセツという概念について最も明快正確な定義を下した書物として、サルトルの『存在と無』を挙げています。そこでサルトルはまず「品のよさ」と「品のないもの」の二つを分け、「品のよさ」すなわち「人間の身体は、一つ一つの行動が、目的にむかって適合し」ているものが、「その実現をさまたげられるときに、あらわれる」のが「品のないもの」であり、ワイセツはそこに含まれる、と三島は解説しています。ここでサルトルがワイセツな肉体の代表として挙げているのが、まさしく「サディストが縄で縛って眺めている相手の身体、つまり自由を奪われた肉体」でした。しかし私はショーにおいて、それが緊縛師とモデルとの共犯関係によって「一つ一つの行動が、目的にむかって適合し」ている限りにおいて、それは「品のよさ」すなわち美的評価の対象であってワイセツではないと思っていました。それが一転したのは縛り手がロウソクを取り出して縄の間に挟み込み、ロウ責めを始めたところです。ここに「行為を捨て去った一つの事実としての肉体が突然露呈され」、ショーはワイセツなものになったのです。「ワイセツの本当の意味は、目の前で人がころんでお尻が丸出しになったのを見るときのような、意外な、瞬間的な、ありうべからざるものをありうべからざるところに見たような場合にひそんでいる」ということを、その場に居合わせて感じました。

  • 束縛と自立について

束縛された女性が吊られるとき、彼女は苦しそうであるどころか、かえって快さそうにします。吊られるということは足が地を離れて宙にぶら下がることだから、身体が脱力するのでしょう。そして彼女は降ろされると、立つのが億劫そうに見えました。宙から地面に下ろされれば、自分の足で体重を支えねばならなくなるからです。

これは束縛と自立の関係に対応していると私は考えました。束縛されていることは、その限りにおいて楽である。しかし自由を確保するには自立する必要があり、それには自重を引き受けねばならない。大人は自立していることを期待されます。SMというのはそうした大人に束縛という役割を演出する一時の遊びであり、フィクションであるわけです。

  • 技術=藝術(art)について

藝術(art)という言葉は、技術(art)をその原義とします。プラトンは『国家』で藝術がイデアの模倣たる現実のそのまた模倣をその基本的原理としており、それゆえに価値が低いものと見なしました。アリストテレスは『詩学』でこれを批判し、自然の模倣から新しい価値を創造しうる藝術の価値を認めました。技術はその洗練された形式において藝術(bon art)であり、例えば武藝(martial art)もその例外ではありません。

突き詰められた技術は、それ自体として様式美を帯びます。ピアノを弾く演奏者の手は、奏でられる音楽とは別の次元で美しい。緊縛もまた縛られる対象のみならず、縛りゆくその手業もまた審美の対象になるでしょう。今回、そうした技術=藝術としての美しさをも緊縛に認めることができました。

同じく講習会に参加した学内の友人であり同好会の主催者に「なぜ緊縛に興味を持ったのか」と問われ、しばらく考え込んでしまいました。私はついにピアノのような楽器を演奏する技術を習得できなかった。そのことを口惜しく思っており、今でもそのような技術=藝術を身につけたいと思っていたのでしょう。