約束とイノセント・ネグリジェンス ADHDについての一考察

ADHD、つまり注意欠如・多動症について、最近色々と思うことが多いです。僕はあるADHD者のことをいつも考えているのですが、それはADHDについていつも考えているということでもあります。

先日、認知科学の講義で作業記憶(ワーキングメモリ)という概念を知りました。気球の数を数えるなど、ある課題を遂行する際に情報を短期的に保持しておく記憶領域のことで、心理学実験で単語を覚えて答えさせられたりするのは、たいていこの能力を測っています。注意が目標以外の対象にそらされたり、課題無関連思考が起こったりすると、ワーキングメモリの働きが妨害され、課題遂行のパフォーマンスが下がってしまうというわけです。

講義では言及されていなかったのですが、この「課題無関連思考」というものが、ADHD者の思考、とりわけ創造的なそれに深く関わっているのではないか、と僕には思われました。ADHD者は学校での授業という形式にあまりなじまない一方で、しばしば芸術など創造性の面で才能を発揮します。これはまさしく思わぬところで生まれるひらめき、「課題無関連思考」と言われるものの正の側面なのではないかと考えたのです。

ADHDと呼ばれるように、AD(Attention Disorder)すなわち注意欠如とHD(Hyperactivitiy Disorder)すなわち多動性とは普通ひとくくりにされますが、多動性が思考において活発となったとき、ワーキングメモリの働きが阻害され、それが注意の欠如としてあらわれるのではないか、と僕は推論しました。このようなロジックにおいて、マルチタスクが苦手なことと、色々なことを同時に思考していることとは矛盾しません。

ADHD者は、約束を果たすのにしょっちゅう失敗します。このことも心理学実験になぞらえて考えることで納得がいきました。約束とは課題であり、約束を果たすことは課題を遂行すること、そのためにひとつの思考を維持しておくことは、彼らにとっては大変な作業です。ひとたび注意をそらそうものなら、課題無関連思考のなすがままになるでしょう。それで彼らは計画の実行を先延ばしにし、約束を果たせずに次の機会としてしまうようです。

おそらくは、僕もまたADHD者です。だからそうした事情は、客観的にはよく理解できます。診断はありませんが、子供の頃から多動性や衝動性があったことに加え、生活面や精神面が不安定になると注意欠如が顕在化することが、大学に入って一人暮らしを始めてから自覚されました。ただ厄介なことに、僕にはまた別の発達障碍、ASD自閉スペクトラム症)の傾向もあるようです。そこで特徴的なのは、数字や音韻といった規則に対するこだわりです。ASD者はその上に形成されたパターンから外れることを怖れます。例えば物事が時間通りにうまく運ばないと不安になります。そしてその隙に現れようとするのが、あの多動性であり、注意の欠如です。

いずれにせよ、こうした傾向はそれぞれASD者やADHD者に一般的な特性であり、本人の態度にその責任を帰するべきではない、ましてや感情と結びつけて考えるべきではないと思えます。そこでこうした特性を本人から切り離して考えられるように、ADHD者の、意識的にせよ無意識的にせよ、約束の履行を先延ばしにしてしまう傾向を「イノセント・ネグリジェンス(innocent negligence)」、つまり「悪気のない怠慢」と名づけたいと思います。その人は約束について考えていない間、別のことが頭の中に浮かんでいるのでしょうが、それは仕方のないことです。保持しているだけで負担がかかる約束、それももはや果たせなかった約束について注意を促すことは、彼らに対して最も無理を強いることなので、やってはいけないと思います。

それでは僕はどうすればよかったのでしょうか。そこで交わされた「約束」に、僕は一体なにを求めていたのでしょうか。できることならば、約束などせずとも同じ場と時間を共有し、そこに声とまなざしを感じることが、互いにとって必要だと考えていたはずです。ならば場の上に生活を展開し、そこに交わりの生まれる隙を作っておくことが、「約束」になることのない約束、いわば信念ではないかと思われるのです。たとえ想像が思考を侵食しようとも、信念が損なわれることはない。その隙に待ち合わせではなく偶然の出会いが、無邪気な出会いが起こるとすれば、それはとても嬉しいことです。